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信長死後の天正11年(1583年)

織田氏筆頭家老であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破った羽柴秀吉が台頭する。家康は信長の次男・織田信雄と手を結び、これに対抗した。そして徳川・織田連合軍は天正12年(1584年)3月、尾張小牧において羽柴軍と対峙した。このとき、羽柴軍の兵力は10万人、徳川・織田連合軍は5万人であった。家康は兵力的に不利であったが、秀吉が小牧に到着する前に羽柴軍の武将・森長可率いる軍勢を酒井忠次に命じて撃破させた(羽黒の戦い)。

秀吉率いる羽柴軍本隊は犬山城に入り徳川軍と対峙し、膠着状態に陥った。羽柴軍の武将・森長可とその義父・池田恒興が岡崎城を奇襲すべく、三好信吉(羽柴秀次)を総大将とする別動隊を率いて出陣した(中入り)。しかし家康は別働隊の動きを察知し、逆に自ら羽柴別働隊に奇襲をかけて殲滅し、三好信吉を敗走させ、恒興、長可、池田元助(恒興の嫡男)らを討ち取った(小牧・長久手の戦い)。

これを機に、秀吉は家康を正攻法で打ち破ることは困難と判断し、伊勢国の織田信雄を攻めた。織田軍には単独で羽柴軍と対抗できる力はなく、秀吉と単独講和してしまった。家康は小牧・長久手の戦いの大義名分を「信長の遺児である信雄を助けて、秀吉を討つ」としていたため、信雄が秀吉と講和したことで名分を失った家康は撤退を余儀なくされた。そして秀吉との講和条件として、次男の於義丸(後の結城秀康)を秀吉の養子とすることで大坂に送った。

天正13年(1585年)に入ると、紀伊国の雑賀衆や土佐国の長宗我部元親、越中国の佐々成政など、前年の小牧・長久手の戦いで家康に味方した勢力は、秀吉によってことごとく討伐された。このため秀吉との対立で不利になった家康は、相模国の北条氏との同盟関係を強化するため、上野国・沼田を割譲することを約束した。ところが、沼田を支配していた信濃国・上田城主・真田昌幸はこれに応じず、家康から離反して越後国の上杉氏に寝返った。これに対して家康は、大久保忠世や鳥居元忠を大将とした7,000人の軍勢を派遣し真田氏を攻めたが、真田軍の巧妙な戦術の前に大敗を喫し、さらに上杉氏の援軍が来たこともあって、撤兵を余儀なくされた(第一次上田合戦)。
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また、この頃になると徳川家中は、酒井忠次・本多忠勝ら反秀吉の強硬派と、石川数正ら秀吉支持の穏健派が対立し、分裂の危機にあった。その結果、数正が徳川氏から出奔して豊臣氏に寝返り、家康は窮地に陥った。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を武田軍を見習ったものに改革していった[7]。

天正14年(1586年)4月23日、秀吉からの臣従要求を拒み続ける家康に対して、秀吉は実妹・朝日姫を正室として差し出した。当時、家康には正室がいなかったためである。5月14日、家康は朝日姫は結婚するが、なおも臣従しようとしなかった。しかし10月18日、秀吉が生母・大政所までも人質として岡崎城に送ってきたため、遂に秀吉に臣従することを決意する。10月20日に岡崎を出立し、10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いに来て、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城にて秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。

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2009年05月29日 08:36に投稿されたエントリーのページです。

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